中国の有名な歴史書に「史記」というのがある。司馬遷という人が書いた本だ。この本には、「期待されるリーダー像」と、「期待される部下像」のいろいろな例がたくさん描かれている。その中に、劉邦と項羽の話がある。劉邦というのは、いうまでもなく中国古代の「漢」という国をつくった人物だ。そのため劉邦は、漢の高祖と呼ばれた。
一方の項羽は、その劉邦に攻め立てられて自分の城で自決する。かれには愛人がいて、非常に美人だった。虞という名だった。項羽は死ぬときに、この虞を抱きながら、「虞や、虞や、汝をいかにせん」(虞よ、虞よ、こんなことになって、一体お前ををどうすればいいかなぁ)と嘆いたという。虞は大変な美人だったので、後に「虞美人草」などという花の名になった。
劉邦と項羽は、まったく対照的なトップリーダーだった。項羽はまじめで、若いときから役人生活を送り、民衆の気持ちをよく理解し、部下への愛に富んだリーダーだった。反対に劉邦のほうは、若い時からヤクザ性があり、酒と女性が好きで、いつもいいかげんな生活を送っていた。また、リーダーシップの取り方についても全く対照的だった。
項羽のほうは、部下のことは何でも知っていた。部下だけでなく、その家族のことも知っていた。たとえば毎日のように、重役に、「どこどこの職場にいる、何とかという男を呼んでこい」という。その男が来ると、項羽は金の包みを出して、「今日はおまえの子どもの誕生日だろう。これで何か買ってやれ」という。部下は感激する。
胸の中で、(この人のためなら、命もいらない)と考える。このように項羽は、末端の部下の家族や私生活に至るすみずみまで知っていた。かれの頭の中にあるマイクロフィルムには、そういうものが一切記憶されていたのである。
反対に、劉邦のほうはいいかげんだった。かれには、張良や韓信、蕭何などという有名な重臣がいた。劉邦に、こと細かく部下のことを知っている項羽の話をすると、劉邦は「項羽はばかだ」といって笑った。報告した者は驚いて、「項羽がなぜばかなのですか?」ときく。すると劉邦はこう答えた。
「そんな末端の部下の私生活まで知っていて、肝心な仕事をどうするのだ?リーダーというのはそういうものではない。何のために組織があり、その組織にポストがあって、おまえたち幹部がいるのだ?」まわりにいた者は顔を見合わせた。末端の部下の家族のことまで知っている項羽に対し、劉邦が、「項羽はばかだ」といったのは、次のような理由からである。
- 組織には必ずポストがあり、トップはそのポストにいるリーダー達に権限の一部を与えている。
- その権限を受けた中間リーダーは、トップの分身であって、中間リーダー個人ではない。
- トップリーダーは、中間リーダーを如何に活き活きと働かせるかが責務になる。
- それなのに、項羽のように一般の従業員に対してまでいちいちロを出すことは、間にいるリーダー達の職権を奪うことになる。また仕事に対する介入だ。
- あるべきトップは、中間リーダーだけを掌握し、その下の部下の管理については、すべて中間リーダーに任せるべきである。
劉邦の説は、一種の「組織論」である。組織というのは、必ず3つの職層に分かれる。トップ層、ミドル層(中間管理職)、ロウ層(一般の職員)である。武田信玄に、「人は城人は石垣 人は堀」という有名な言葉がある。この言葉は、組織のトップ、ミドル、ロウに対する信玄の気持ちを告げたものだ。信玄はこう考える。
「自分が仕事に対して持っている権限と責任は、たとえば1つの茶碗のようなものだ。分権というのは、この茶碗を叩き割ってたくさんのカケラをつくることだ。これをミドルとロウのすべての人間に分け与えることである。分け与えるということは、部下の生活を保証する、つまり給与を与えるということである。その代わり、どんなに小さなカケラでもこの給与をもらった者は、その給与についてはトップと同じ責任がある。人は城、人は石垣、人は堀というのはそういう意味である」
だから、ロウ層が末端で、例えば対外者に接触する場合においても、信玄から見れば、「ロウの一職員でなく、私の一分身、あるいはひとカケラがその対外者に接触しているのだ。対外者から見れば、その職員の対応の姿勢によって、この組織に対するイメージか決定してしまう。それだけの責任がある」ということである。しかし、そうさせるためには、部下から見て「この人のためなら」という気持ちを起こさせることが必要だ。
これは単に、普通にいわれるリーダーの条件だけではなく、「そうさせる魅力」かなければだめだ。「このリーダーは、自分のことばかり考えているのか、それとも部下に対して愛情をもっているのか」というモノサシである。次で詳しく述べ「叱る」と「怒る」の差は、その一例だ。
劉邦の考えによれば、「組織にはそれぞれポストがあり、自分がトップとして権限を分け与えたリーダーが中間にいるのだから、その下の部下の管理は中間リーダーにまかせる。その代わり、何か起こったときの最終責任は自分が負う」ということである。これがなければだめだ。何か起こったときに、「おまえに権限を委ねているのだから、おまえがすべて責任を負え」などといっていたのでは、中間リーダーだけでなく、ロウ層の職員からも見限られる。